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めでたーぃ!!


大輔銅メダル~!!
小塚君も信成も頑張った~!!
でも、信成の靴紐切れたのは、残念ですね…

何はともあれ、快挙の夜には…tikitikiさんに教えて頂いた宮本精肉舗の馬刺し食べてお祝いですょ!!

旅の最後に買ったんですが、真空パックにしてくれるので1週間は大丈夫だとか^^
とっても便利ですね~♪♪

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昼間、横目でチラチラTV見てたのですが、日本選手が出てくると、もぅ心臓ばこばこで落ち着きません…
挙句に涙が溢れてきます…(始まる前からどうしてでしょぅ…汗)

結果はこうでしたが、3選手共本当に頑張った!!
今夜は、日本全国で美味しいお酒飲んでる人多いかな~?!

そうそう、昼間久々にプチチャット状態になったお友達達…(笑)
何故か話題はこの方の事…
日本では、そんなに有名じゃぁない?(私の中では有名人でしたが…)
知らない方も知っていても、なにかと知らない事もあるので折りたたんでみました。









本職のスケート以外でも、何かと話題を振りまいて事欠かないこの方…
番組で彼の特集があったのですが、このCMがなんとも好きでしてw



CMのメイキングもありますよ~♪



そしてちょっと風貌からして、そっち系かしら?!との疑惑がちらほら聞こえたので、
今は、この前までEvan Lysacekと付き合っていた、美人でモデルもやっているアイスダンスのTanith Belbinと、
選手村で2ベッドルームのスイートを共有しているらしぃですよ。


Johnny Weir(彼の記事があったので、和訳と一緒に貼っておきます)

人生で初めて、打ちのめされたジョニーウィアーは、フィギュアスケート人生の選択肢が唯一つ -スケートをやめるということになってしまったのではないかと怯えた。年齢的には人よりも遅れてスケート界に入ってきたこの才能あるアスリートにとっても、どん底というのは未知の領域ではないかのように思えた。彼には、一触即発で論議を巻き起こすようなことをする能力があり、スケート靴ですべるようにすばやく、辛らつな言葉を言い、毀誉褒貶を受けた。

普段はすぐに立ち直ることのできるスターは、3度全米チャンピオンになり、2001年のワールドジュニアチャンピオンでもあるが、すべてを経験し、あらゆることを耐え抜き、ここ数年間は敗戦して打ちのめされても、今までどおり、いつも立ち直ってきた。

2003年の全米選手権がそうだった。ウィアーが怪我をしてフリースケートの途中で棄権した時には、批判的な詮索や将来の失敗を予告する興奮した意見などが奔流のようにあふれ出した。

それから2006年の冬季オリンピックも、そうだった。そのときウィアーは、試合では最高の2位という成績でロングプログラムに入っていった。前にいるのはロシアのスーパースター、エフゲニープルシェンコだけであった。ウィアーは少しもたついて、それでも最終的には、立派な5位という成績を残したが、アメリカのメディアはもっと大きな期待を抱いていたので、通信社のニュース速報でウィアーにかなり手痛い発言をぶつけることになった。
スケーターの受信箱には何千ものメールが続々と入った。応援してくれる温かい言葉もあれば、憎しみをぶつけるような厳しい手紙もあった。中でも一番不安にさせたのは殺してやるというような脅しであった。


苦い敗北

そのとき21歳だったウィアーは何とか再び再構築をして、立ち直った。オリンピックのわずか数週間後、彼はカルガリーで2006年世界選手権に出場しなければならなかった。そこでは雪辱を果たす演技をしたいと願っていた。結果は7位だったが、めげないウィアーは持ち前の皮肉に満ちたユーモアと楽観主義で2006-07シーズンを迎えようとしていた。

彼は長い間ずっと彼のそばにいたコーチのプリシラヒルとともにシーズンに入ろうとしていた。ヒルはウィアーを2004年から2006年の全米選手権のタイトルに導いた人だ。ところが、2007年の全米選手権では彼の経歴で最悪の衝撃を受けた。3位という成績に下がり、ライバルで新チャンピオンとなったエバンライサチェックに30点以上も引き離されてしまったのだ。

「あれは最悪だったな」 そうウィアーは語った。「今までの3回の試合のような演技はできないとわかってきたんだ。調子が悪かった。準備もできていなかったし、僕とエバンの間に大きなライバル関係が作り上げられていた。演技をするのに大変なプレッシャーがあったんだ。それに、僕はメディアや、連盟からさえ、ほかのスケーターとはまったく別扱いにされていた」

ウィアーはすぐに自分のコントロールを失った。「僕はとても不安定な状態だった。まるで準備をしようとしているのに、すべてのことが手の届かないところにいってしまったみたいな感じだったんだ」

ウィアーに決定的な瞬間が訪れたのは、2007年の世界選手権の練習から帰るために車を運転している最中のことだった。彼は自分がどん底にいるということを自覚したのだ。ウィアーはそのときのことを思い出して次のように語った。「僕は自分に言ったんだ。『どちらか決めよう』深く掘り下げて、自分がスケートに何を望んでいるのかを決めるか・・・そうでなければやめるか」

そのときにはウィアーは、彼が第2の母と呼んでいるヒルが、彼の力を信じるのをやめたと感じていた。「もし彼女がやり直せると思っていたとしても、僕はそういう印象を持てなかったんだ。彼女の支えでは足りないと感じたんだ」 ウィアーはそう話した。

二人が日本についたとき、二人の緊張関係は高まった。「そのときには、僕はコーチを替えなくちゃいけないとわかっていた。僕たちはフリースケートをすべるためにリンクに入っていく前に10分間も口論をしたんだよ」 ウィアーは8位に終わり、それは4回のワールドへの出場の中で最悪の順位だった。


新しい視野

スケート選手としてのすべてのキャリアをヒルの指導の下で過ごしてきたが、ウィアーは転換をはかり、彼を信頼してくれる、そしてもっと重要なことは、彼が再び自分を信じることができるようにしてくれるコーチを見つけなくてはいけない時期が来たのだと決断した。

「ガリーナズミーフスカヤは、ぜんぜん僕のリストのトップにはいなかった。最後に彼女が一緒に組んだアメリカ人のスケーターはスコットデイビスで、そのときは彼のキャリアの最後のほうだったから。彼女からはオクサナ(バイウル)とヴィクター(ペトレンコ)を超えるようなトップスケーターを育てた経歴は見つからなかった」

しかし、ウィアーはバイウルとペトレンコと一緒に残したズミーフスカヤの成果が一流のものであることを見逃していた。バイウルの1994年のオリンピックでの金メダルの演技は世界中の観客の心を鷲掴みにして、国際的な名声をもたらしたし、ペトレンコの1992年のオリンピック金メダルは、オリンピックでの前ソビエト、現ロシアの男子チャンピオンの連覇の道を開き、それは2006年のトリノでの冬季オリンピックまでずっと続いた。

伝説的なコーチ、タチアナタラソワがウィアーの最初の選択だった。ウィアーはロシアに関する知識と愛着で知られていて、夏の間わずかながら彼女と練習をしたことがあった。「アメリカ人が一人でふるさとから遠く離れてモスクワに住むことが、どれくらいお金がかかり、大変なのか調べてみたときに、絶対に孤独になるってわかったんだ。アメリカで練習しなくちゃいけないとわかったよ。でも、別のアメリカ人コーチは考えられなかった。だって僕は最高のコーチを知っていたからね。プリシラヒルだよ」

グランプリシリーズで8つのメダルを手にしている彼の短いリストの次にあったのはニュージャージー州ハッケンザックに拠点を置くコーチ兼振付師のニコライモロゾフだった。以前はタラソワのアシスタントだったモロゾフのダンスリストはすでにいっぱいだった。「ニコライ(モロゾフ)には、高橋大輔や安藤美姫がいて、そのほかにものすごい数のほかのスケーターやダンスチームのプログラムの振り付けをしていた。僕にはもっと僕一人だけの特別扱いが必要だってことがわかっていたんだ」


by anelalana | 2010-02-19 19:52 | きもち


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